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【明日への扉】津屋崎人形 人形師 〜 郷土の想いをのせて〜

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福岡県北部にある福津市。2005年に福間町と合併する以前は津屋崎町と呼ばれていたこの地で、250年に渡って作られ続けてきたのが津屋崎人形(つやざきにんぎょう)だ。



素朴な土人形に鮮やかな彩色を施した津屋崎人形は、郷土玩具として、また縁起物として、人々に愛され続けてきた。

津屋崎人形の始まりは江戸時代後期だ。もともとは地元の良質な粘土で食器などの生活雑器が作られていたが、やがてその土で人形が作られるようになったという。博多人形の始祖、古型博多人形の影響を大きく受けた津屋崎人形は、キメの細かい肌と鮮やかな色彩を特徴としている。

加藤清正の像、干支、七福神……。数多ある津屋崎人形の中でも、ひときわ愛され続けているのが「ごん太」と呼ばれる直立不動の男の子の人形だ。



ただ可愛いだけではない、なんとも不思議な表情でこちらを見つめるごん太。もともとは赤ちゃんのおしゃぶり人形として使われていたそうだ。明治時代、九州ではおしゃぶり人形が流行し、佐賀県には長太郎という人形も残っている。



さらに、ごん太と並ぶ人気者がフクロウの姿をしたモマ笛だ。モマとは、この地方の方言でフクロウのこと。先を見通す能力があるフクロウは、縁起物とされ重宝されてきた。モマ笛は、かつてお年寄りが食べ物を喉につまらせないように、気道を広げる道具としても使われていたのだという。



現在、津屋崎人形を作っている工房は、1777(安永6)年創業の筑前津屋崎人形巧房しかない。その工房で人形作りに精を出しているのが、原田翔平(はらだ しょうへい)さん、33歳だ。翔平さんの師匠は工房の七代目当主で、父である原田誠(はらだ まこと)さん。母、千恵(ちえ)さんと共に、家族で人形を制作している。

実は、翔平さんはもともと跡を継ぐ気はなかったそうだ。しかし、大学卒業後に公務員として働いていた時、大きな転機が訪れた。展示会を訪れたある女性が、モマ笛をまるで我が子のように可愛がり、一緒に生活している様子を話してくれたのだ。その時について、翔平さんは

「家族として愛されているっていうのがすごく新鮮だったんですよね。そういうものを作りたいと思いましたし、津屋崎人形をその時代時代で愛してくれる人がいて、その結果残ったんだなと気づかされました」と語ってくれた。



工房には、様々なごん太が並べられている。地元福岡の博多織や、久留米絣を纏ったごん太。祭り衣装の山笠ごん太。さらには、愛らしいお尻をプリッと出して寝そべるごん太までいる。

ごん太の表情を描く「面相」という重要な工程は、代々工房の当主だけが行ってきた。顔は、人形の命。面相は、まさにごん太に命を吹き込む作業なのだ。



「墨の含み具合とか、筆のしごき具合によって濃くなったり、薄くなったりする。それでまた表情が変わりますので、要所要所で墨の濃淡を使い分けるというのがありますね」と、師匠である原田誠さんは話す。

そして、いよいよ翔平さんにもごん太の面相に挑む日が訪れた。

下書きはせず、一発勝負。筆から抜けかけて飛び出している、たった一本の毛が命取りになることもある。筆先に、全神経を集中させる。

果たして、翔平さんが初めて面相に挑んだごん太が完成した。代々の当主たちは、時代に合わせ自分ならではのごん太を生み出してきたというが、さて、翔平さんのごん太は──?

 
続きは、ディスカバリーチャンネル放送から。


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Text by Discovery編集部

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