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イエス・キリストの誕生を祝った東方の三博士、その嘘と真実

2019.01.10

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ライフスタイル
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Discovery編集部

イエス・キリストがクリスマスに生まれてから、東方から3人の王が彗星に導かれてその誕生を祝うためにベツレヘムにやってくる。

このシーンは、イエスの誕生の場面には必ず描かれるドラマチックな出来事であった。

しかし実際に、東方から博士たちがやって来たのか。新約聖書の中でも、それに触れられているのはわずかに『マルコによる福音書』のみなのである。

それでは、このシーンはなぜここまで人々の間に普及したのであろうか。

ヨーロッパでは「王」とされる3人の聖職者の存在


Credit : Pixabay

日本では「東方の三博士」と訳されている3人は、ヨーロッパの言語では「王」とされていることが多い。日本語ではそのほか、「マギの礼拝」とも訳されている。「マギ」とは、現代のクルドがメデスと呼ばれていた時代に、かの地で聖職に従事していた人々の総称であった。彼らの宗教は、火炎崇拝のひとつ「ゾロアスター教」であったと考えられる。紀元前5世紀からその存在が確認されているメデスでは、歴史家のヘロドトスによれば「夢と星を占う宗教」が盛んであったという。

7か月の天下であった聖職者の王 唯一の例

だが、この聖職者たちは「王」との兼任は許されていなかった。唯一、紀元前522年に魔術を操り兄王の留守に王位を名乗ったスメルディスというペルシアの司祭が王位を兼任した例がある。しかし、この謎多き王は7か月で打ち首に処された。その後、聖職者は宗教的な儀式と占星術にあけくれるのが常で、「王」となる例はなかった。

イエスの時代にはもちろん、「マギ」と呼ばれた司祭たちは政治的な権力は有していない。だから、日本語の「東方の三博士」という訳は理にかなっているのである。

三博士がイエスのもとを訪れるという記述はプロパガンダ?

イエスの降誕のシーンに、立派な身なりの人種も異なる男性が貢物を持って登場する場面は、実はキリスト教の普及に大きな役割を果たしたと語るのはボローニャ大学教授マウロ・ペーシェである。

『マルコによる福音書』が記されたのは、西暦80年頃。まさに、キリスト教が急速な勢いで普及していた時代と重なる。キリスト教が人種も国境も超えた宗教となるために、黒人や白人のエリートがイエスを詣でる場面はプロパガンダとしては大いに有益であったというわけだ。

ハレー彗星は紀元前と紀元後の境には存在せず


Credit : Wikimedia Commons

「ベツレヘムの星」と呼ばれて、三博士を導いたといわれる彗星の存在も、天文学者の間で諸説がある。現代の研究によれば、肉眼で確認されたとされるハレー彗星は、紀元前87年、12年、そして紀元後の66年にしか現れていない。紀元後1年には、エンケ彗星の存在が確認されているが、これは肉眼では見ることができないという。

いずれにしても、星に導かれた博士たちの構図は、絵画的には文字通り画竜点睛であったことはまちがいない。

民間伝承に登場する4人目のマギ、外典に登場する王たちのキャラバン隊


Credot : Wikimedia Commons

ところで、この3人の博士が実は4人であったという伝説もある。マルコによる福音書には、博士の人数が特定されていないためである。

定番の3人は、黄金と没薬と乳香を貢物としてイエスに捧げている。伝説の4人目は、イエスのために真珠を持参したという。ところが非常にキリスト教的なのだが、ベツレヘムへの旅路において貧しい人々に真珠を一粒ずつ与えていたところ、イエスに捧げる前にすべてなくなってしまったという。手ぶらでイエスのもとに行くことを躊躇した4人目の博士は、旅を中止する。しかしその夜、夢の中にイエスが現れて彼に感謝の意を伝えたという。

また、アルメニア語で残る聖書外典によれば、3人の博士は兄弟でありそれぞれアラブとインドとペルシアの王と設定されている。3人は12000人のキャラバンを組んで山ほどの貢物をイエスのもとに届け、代わりにイエスの「おむつ」を持って帰ったという。この聖なる「おむつ」は、3人の博士が帰国後に聖なる儀式のために炎の中に投げたが燃えずに残ったのだそうだ。

政争に巻き込まれた東方三博士の聖遺物

カトリック教会では、聖遺物を所有する教会は人気が高かった。イエスや聖母マリアに関連する聖遺物、十二使徒に関する聖遺物は特にその中でも優位性が高かったが、東方の三博士もこの運命から逃れられなかったのである。

存在も定かでなかった東方三博士であるが、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌスの母后エレナによってイェルサレムからコンスタンティノポリスに運ばれた。その後、別の皇帝がこの聖遺物をミラノの街に贈呈する。ミラノでは、聖エウストルジョ聖堂で大切に保管されていたが、1164年にローマ皇帝フリードリヒ一世によって略奪され、ケルンに移された。

ミラノ市民は、数世紀にわたって「聖遺物」の返還を求めていたが、1903年にようやくその一部が聖エウストルジョ聖堂に戻されたという。

現在も、東方の三博士がイエスを詣でたとされている1月6日には、同聖堂を訪れる信者が多い。

  1. Sachiko Izawa
  2. *Discovery認定コントリビューター
  3. イタリア在住ライター。執筆分野は、アート、歴史、食文化、サイエンスなどなど。装丁が気に入った本は、とりあえず手に入れないと気持ちが落ち着かない書籍マニア。最近のひとめぼれは、『ルーカ・パチョーリの算数ゲーム』。@cucciola1007


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